登山は自由なスポーツですが、その自由は「ルールを守り、他者に迷惑をかけない」という大前提の上に成り立っているはずです。
行政や警察が繰り返し発信する警告やルールを無視し、冬の危険な富士山登山を強行した結果、遭難してしまった場合、多額の公費(税金)を投じる必要が本当にあるのでしょうか?
ルールの無視、「閉山中の富士山登山」で繰り返される遭難事故
閉山中の富士山は、極寒の気温と猛烈な風、そして一面が鏡のようなアイスバーンと化す、国内屈指の危険地帯と言われます。
万全の準備なしでは生還不可能な「死の世界」ですが、行政の警告や登山ルールを無視し、無謀な入山を強行する者が後を絶ちません。
その結果繰り返される遭難事故は、多額の救助費用や隊員の二次遭難リスクという重い社会的負荷を招いており、「自己責任」では済まされない深刻な問題となっています。
あなたの『趣味』が誰かの命を落とすかも知れない
冬の富士山での遭難救助は、常に命懸け。
救助隊員は猛吹雪や滑落の危険がある極限状態の中、二次遭難のリスクを背負って現場へ向かいます。
「個人の趣味」のために、高度な訓練を受けた隊員の命が危険にさらされる現状に、強い倫理的疑問を抱かざるを得ません。
莫大な救助費用
経済的コストも甚大です。
一回の出動でヘリコプターの運用費は1時間40万円にものぼり、数十人規模の人件費も含めれば、莫大な公費が投じられます。
ルールを無視した無謀な登山の代償を、なぜ社会が負担し、他者の命を担保にしなければならないのか。
自由を享受する裏にある、救助される側のモラルと責任の重さを、今一度問い直す必要があります。
なぜ「公費」で救う必要があるの?
無謀な遭難を公費で救う根底には、憲法が保障する「生存権」と、国家の生命保護義務があります。
法の下では、救助対象が「善人か愚か者か」という主観的な基準で選別されることは許されません。
また、救助の選別は大きな危うさを孕みます。
「不注意なら有料、不可抗力なら無料」という境界線を一体誰が引くのかという問題があるのも事実です。
基準が曖昧になることで、公的サービスの公平性は崩壊しかねません。
何より、どんなに無謀な行動であっても国家が命を見捨てないという姿勢こそが、社会全体の安心感を支える安全網(セーフティネット)となります。
個人の是非を超え、等しく命を救う仕組みが、結果として社会全体の信頼を守っている側面があるのです。
「自己責任」「自業自得」と切り捨てるのは寂しい?
「自己責任」と断じるのは容易ですが、過ちを犯した者を冷酷に突き放す社会はあまりに寂しいものです。
人間は時に無謀な失敗をするものであり、その未熟さをも包摂してこそ社会の温もりが保たれます。
救助の是非を巡る議論は必要ですが、冷笑的な言葉で遭難者の命の価値を否定する風潮は、巡り巡って誰もが生きにくい不寛容な世界を招きます。
効率や正論だけで測れない「他者への想像力」を持つことが、成熟した社会の厚みではないでしょうか。
とにもかくにも厳罰化が必須
「自己責任」の啓発だけでは、無謀な登山による社会的損失を食い止めるには限界があります。
現状のガイドラインは強制力に欠け、善意の救助体制に甘えているのが実情です。
入山規制を無視した者への高額な罰金や、救助費用の全額請求を義務付ける「厳罰化」は、抑止力として不可欠。
個人の自由を尊重しつつも、無責任な行動が他人の命や公費を脅かす場合には、毅然とした法的ペナルティを課すべき段階に来ています。
無謀な行動と、それがもたらす社会的損失のバランスをどう取るべきか
登山者に救助を求める権利があるとしても、それは万全な準備を尽くした上での話です。
適切な装備、知識、そして万が一の費用をカバーする保険への加入など、救助者に過度な負担をかけない登山者のモラルの徹底は必要不可欠。
この問題は登山に限らず、海難事故や危険地帯への渡航など、あらゆる「自己責任」が問われる場面に通じています。
もちろん単に「自業自得」と切り捨てる社会は冷酷ですが、無謀な行動がもたらす人的・経済的な社会的損失を看過し続けることも限界があります。
命を救う公共性を維持しながら、個人の無責任にどう歯止めをかけるか。権利と責任のバランスを問い続けることが、成熟した社会への一歩なのではないでしょうか。